感受性
昔小さい頃は感受性豊かな子供だったと思います。
それが大人になるにつれて
花が綺麗だとか
この音楽に感動するとか
建物の奥ゆかしさとか
そういったことを口にすると馬鹿にされるようになって
やめてしまった。
今日久々にそのことを思い出して
あの頃の傷ついた私を抱きしめてあげたいのと同時に、
今は静かに胸の中でいろんなことを感じることができるようになったよって
教えてあげたい
はじめてのセブ留学
そもそも、なぜ留学へ行きたかったのか考えてみると
小学生の時、姉の学校でホームステイを受け入れる家族の募集があり、アメリカから一人の女の子を、受け入れた1ヶ月間で、外国に対する興味が湧いて。
中学生の時、世界がもし、100人の村だったらというドキュメンタリーの番組を見て、本を読んで衝撃を受けて、何か役に立つかもしれないと英語の勉強を頑張ったりして。
高校生の時、チェコとオーストリアで修学旅行があって、合唱のレッスンを受けたり、歴史的な建造物を見て回ったり。
ぼんやりと海外に対する憧れはあったけど、海外へ行こう、留学をしよう!と思ったのはやはり大学生の時のことです。
前のブログで書いたように、大学では不登校となり、だんだん友達とも会うのが嫌になっていたし、大学へ行かないといけないと思うと、涙が溢れるような状況が続いていました。
成績はいつも中の上。
なにもかもうまくいってたはずなのに、
大学にきてなぜこんなことに…と、その時は、そんな自分にほとほと嫌気がさして、自尊心も地に落ちていました。
誰も知らない、どこか遠くへ行きたい。
けれど、大学を辞めて、父親や母親を悲しませたくないし、これ以上、自分を落とすようなことをしたくない。
そう思い、その2つを叶えるためにはどつすればいいかと考えた結果、留学を思いつきました。しかし、その当時学生だったため貯金もろくになく、憧れていたイギリスやアメリカへの憧れは捨てて、低価格の留学ばかり調べていました。
すると、セブ留学がマンツーマンであまり費用もかからないということがわかってきたため、
その線で探していると、10万円ほどの費用でインターンシップも留学できる制度を知り、早速問い合わせをしました。
そのからわずか2ヶ月程で
申し込みが終わり、セブ行きが決まりました。
そもそも、セブってどこの国?
というレベルであまりこだわりを持たずに簡単に決めてしまいました。
逃げだと言われればそうなのかもしれません。
けれど、もう自分には何も残っていない状況でまた同じ土壌で頑張ることは今考えても不可能だし、これしかないと正直思っていました。
後に、セブ島インターンシップで体験したことは自分の人生にとても大きな影響を与えたし、
今でも自分の真ん中を作るようなかけがえのない出来事になっています。
しかし、その話はまた次回。
逃げていけないことなどあるのだろうか。
自分の人生だ。
全部自分で決めるんだ。
今でも胸を張ってそう言える。
過去は関係ない、あなたの今が一番大切。
私は今、夢を諦めてしまうあらゆる人に
過去で未来を決めるのではなく、
未来は今この瞬間にあなたが決めているのだ
とお伝えしたい。
現在は趣味でクラシック音楽を楽しんでいる私ですが、学生時代は結構本格的に勉強していました。
〜はじまりは小学生時代〜
よくありがちな話ですが(笑)近所のお姉さんに憧れて、そのお姉さんが入っていた金管バンドに入部します。
その当時、部員13人。
部員の少なさが原因で、同じ曲でも、部分部分で2種類の楽器を持ち替えて吹いたり、壊れた楽器を使えなくなるまで修理を繰り返し、使うような貧乏弱小バンドだったのですが、小学4年生で
県大会の代表を勝ち取り、地区大会へ出場を果たします。
このときにすでに、"近所のお姉さんへの憧れ"から、"音楽への憧れ"へと変わっていってたような気がします。
〜音楽を志す中学時代〜
小学生時代の金管バンドの流れで吹奏楽に入る!と入学当初から決めていました。
担当の楽器はバリトンサックス。
365日中休みは10日も無かったと思います。
ほぼ毎日練習に明け暮れ、音楽のことはもちろん、それ以外の礼儀作法をたたきこまれるような厳しい部活でした(後にとても感謝することになる)。その練習があってか、中学2年、3年で全国大会出場も果たします。
中学3年時の全国大会は、レギュラーメンバー50人に対して、初心者(楽器をはじめて2年目のメンバー)32人で全国大会出場を叶えて、音楽をもっと本格的に勉強したい気持ちが大きくなり、音楽科のある高校への進学を決意。
担当だったバリトンサックスでは受験できないため、アルトサックスに持ち替えて、練習をはじめます。(ここもさらっと書いてるけどかなり大変だった)
〜はじめての挫折を味わう高校時代〜
無事、音楽科のある高校を合格し、本格的な音楽の授業が、はじまりました。
中学までは、吹奏楽部でもちろん音楽の成績は良く、ピアノもまぁまぁは弾けたのでなんとなく自分はできる方だと勘違いしていました。
しかし、高校は県内唯一の音楽科だったため、あらゆる強者を前に挫折を味わいます。母親がピアノの先生、家族みんなが音楽一家、小学生の頃からトランペット吹きなど、、、
私は中学3年からアルトサックスを始めたので、経験から言えばむしろ最下層。
経験の浅さで負けている分、ほかで負けたくなかったので、練習に励みましたが、長く続けている人ほど練習を怠ることはなく、差は縮まらず。
高校の吹奏楽部も強豪校。中学時代には、いつかこのメンバーになって、コンクールに出たいという気持ちで入部するも、オーディションで落ちまくり、メンバーに選ばれることはなく、
自分は道を間違えてしまったのかもしれないと後悔の日々。
〜オペラ ラ・ボエームとの出会い〜
そんなときに声楽の先生が声をかけてくださってみたのが、オペラのラ・ボエーム。
そのとき、こんなに美しい音楽があるのかと強く感じたのを覚えています。
そこからわずか2日であれだけ情熱を注いでいた吹奏楽部を退部し、声楽の先生の元、勉強を始めます。
〜歌と勉強漬けの大学受験時代〜
もともと歌は好きだったし、得意だったため、声楽はやればやるだけ自信と実力がつくのが自分でもわかりました。
音楽大学への進学を希望しましたが、
我が家の経済的に、音楽大学は厳しいと両親に反対され、何度も話し合いをし、結果的に、県内の国立大の音楽科であればという条件付きで許しが出ました。
それから死に物狂いで勉強し、無事国立大学合格をおさめるのですが、正直、教員になりたいと微塵も思っていなかったので、音楽の勉強が続けられるというなんとなくの気持ちしかありませんでした。
〜迷いと葛藤、大学時代〜
いざ、大学に入ると音楽の授業の少なさに驚きました。教員になるための学科なので、当たり前なのかもしれませんが、私の専門の声楽の授業は週1回たった15分のみ。
それでは、意味がないとまた道を間違ってしまったのかと後悔しました。
そんな気持ちが歌に表れていたのか、教授からはやる気がないなら帰れと言われるほど…
フラストレーションが溜まっていた私はこんなに短いレッスンでは何もわからないと反論してしまい、教授と大喧嘩。
そこから大学へ行くのが
とても辛くなってしまいました。
大学へは行きたくない。
やりたいことも特になく、周りからは劣等生だと言われ、やる気のない毎日を過ごします。
それでも、一人で練習室で歌う時間は私にとって、かけがえのないものでしたが、歌ったところで誰も耳を貸しません。
もう卒業も諦めようかな、と思っていたときに
一人の声楽の非常勤の先生が声をかけてくださり、先生のご好意でまたみっちり音楽を勉強することになります。
しかし、その先生は大学の予算縮小のために、
1年後、退職されることになりました。
やってはだめになり、やってはだめになりの繰り返しで、やりたいことも目標も何もなく、
毎日バイトに行って、行ける授業だけ出て、
本当に、自堕落な生活をしていました。
ホルモンバランスも悪かったのか、
学校のことを考えるだけで涙が出て、
親にも友達にも辞めたい、もう何もしたくないと駄々をこねていました。
しかし、そんなときに私を変えてくれたのが
半年間のセブ島留学でした。
そのおかげもあり、その後、無事に大学を卒業し、やりたい仕事をして生活ができています。
それはまた次回。